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ミャンマーの軍部は、ラカイン州西部から避難しているイスラム教徒のロヒンギャの通る道に地雷を敷設したとして非難されている。
アムネスティ・インターナショナルは、10日に2人が傷を負ったと報告している。
ラカイン州での最新の暴力行為に関して、難民は主に兵士による銃撃と村での放火について語る。
しかし、過去2週間のうちに30万人のロヒンギャが避難してきたバングラデシュとの国境では、傷害の原因が、対人地雷や他の爆発物にあると指摘されるケースがいくつかある。
AP通信の記者は11日、国境のバングラデシュ側でひどい足の傷を負った年配の女性と会った。
片方の脚は、ふくらはぎから下が吹き飛ばされているようで、もう片方もひどく傷ついていた。親戚が言うには、地雷を踏んでしまったということだ。
アムネスティ・インターナショナルによると、ミャンマーは、北朝鮮やシリアと同じく、近年においても対人地雷を公然と使用してきた軍隊をもつ数少ない国である。
1997年に国際条約で対人地雷の使用は禁止されたが、バングラデシュはその条約に調印したもののミャンマーはしていない。
ロヒンギャ難民の避難路に地雷を仕掛けるミャンマー軍 複数の犠牲者
https://newsphere.jp/world-report/20170920-1/
ロヒンギャとは誰か
ロヒンギャとは、バングラデシュとの国境ラカイン州の北西部に主に居住するムスリムの総称です。その語源は、この地にあった仏教王朝のアラカン王国(1430~1785)の王都ロハンに由来するといわれ、当時から仏教徒に混じってムスリムが暮らしていたことは確認されていますが、彼らが自らの呼称として「ロヒンギャ」を名乗り始めたのは、ビルマが独立して間もない1950年とみられています。逆に言うと、それ以前、この地で暮らすムスリムは、公式には「名なし」だったといえます。
この地のムスリムが、いわば「最近」になって自らの呼称を定めたのは、ビルマ(1988年にクーデタで権力を奪取した軍事政権は「ミャンマー」に国名を変更した)という国家が成立したことと無関係ではありません。
「一つの国家が一つの国民で構成される」という観念は、近代西欧で生まれました。それ以前の世界では、ローマ帝国や中国の歴代王朝がそうであったように、異なる宗派や民族が一つの政治的権威のもとに統べられることが一般的で、イスラーム圏や東南アジアも、その例外ではありませんでした。「帝国」の語には抑圧的なイメージがありますが、異なる属性の者を排除する傾向は、むしろ「一つの国民」イメージを強要する近代国家の方が強いのです。実際、ヨーロッパにおけるユダヤ人迫害は、キリスト教が絶対的な影響力を持っていた中世より、「国民の一体性」を前提とする近代になって、激しくなりました。
そのため、近代以降のどの国でも、ほとんどの人々は社会的に「一人前」と扱われるために、「主流」の文化に吸収・同化されていきました(フランスで各地の少数言語が加速度的に消滅していったのは、それまでヴェルサイユやパリの周辺で主に話されていた「フランス語」が、革命後に各地の小学校で強制されて以降)。しかし、なかには「国民」としての立場と自らの文化の両立を目指す人々もありました。ロヒンギャは、その一つの例といえます。
植民地支配から解放され、ビルマが国家として独立したことで、それまでいなかった「ビルマ国民」を作り出す必要が発生しました。そのなかで、人口のほぼ7割を占め、その多くが仏教徒でビルマ語を話すビルマ人が、暗黙のうちに「ビルマ国民」のイメージとなったことは、不思議でありません。
一方、ラカイン州には、アラカン王国時代だけでなく、19世紀からの英領植民地時代や太平洋戦争前後の時期に、やはり英国植民地だったベンガル(現バングラデシュ)から、多くのムスリムが流入していました。そのため、彼ら自身が強調するほど、「ロヒンギャ」のルーツは定かでありません。しかし、そうであるがゆえに、多数派の仏教徒ビルマ人から「外国人」と扱われてしまえば、教育や居住など様々な面で「国民」としての権利は保護されなくなります。
こうしてみたとき、近代国家の誕生は、それまで「名なし」で差し支えなかったこの地のムスリムに、ビルマ人が圧倒的多数の社会で「一人前」と扱わせ、自分たちを「(外国人ではなく)ビルマ国民のうちの一部の集団」と認めさせる必要に直面させたといえるでしょう。これが「ロヒンギャ」誕生の転機となったのです。
ロヒンギャ族ボート難民
引用元
2ch.sc元スレ http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1505890323/ 【ミャンマー、ロヒンギャ難民の避難路に地雷を設置@2ch.sc】の続きを読む